こんにちは!!
今日は5月8日、 水曜日ですね。 いかがお過ごしですか?
私は今日は、目の手術をします、と言ってもたいしたとはありません。
目じりに着いた 脂肪をとってもらいます。 10分程度で終わるそうです。
さて、 今日のテーマです。
” 高校野球の革命児”
私はプロフィールにも書いていますが高校野球は大好きです。
時間がある時には球場に足を運びます。 時間がない時でも YouTube や Google で 高校野球の記事を見たり読んだり毎日しています。
先日 Google YouTube は 情報の宝庫というお話をしましたよね。
今日はその中から1つ高校野球の名物監督をご紹介したいと思います。
ちょっと古い話になりますが お付き合いください。
徳島に池田高校という高校があります。 県立高校です。
その昔、蔦文也(つた すみや)という監督がいました。 1923年 大正12年うまれです。
徳島出身のプロ野球選手でもあります。 甲子園で池田高校を3回優勝に導きました。
あだ名は” 攻めダルマ”
とにかく売って売って打ちまくる 豪快な野球”やまびこ打線”で、フアンを魅了し一世を風靡しました。
その中心選手となったのは 元巨人軍ピッチャーの阿波の金太郎こと 水野雄仁さんです。
元・ 巨人軍のピッチャーの槙原さんと YouTube で対談をしていました。 とても面白かったのでご紹介させていただきます。
池田高校は徳島県の山の中にあります。 その小さな高校が全国の高校野球史に名を当時取り上げたものは、
①金属バット
② 筋トレ
③ ポカリスエット
④ 本の出版
⑤ マスコミの取材
ある池田高校元野球部の人の話によれば、キャッチボールは、なかったそうです。
普通であれば ランニングをやってからキャッチボール、 それから 打撃練習という順番ですが、とにかく打撃優先でマシンを相手にガンガン しまくっていたそうです。
当時金属バットが導入されたのですが、蔦監督は積極的に買い揃えていたそうです。
普通 県立高校は部費があまりないのですが、 当時 池田高校が全国制覇をしたため 寄付金がいっぱい 余ったそうです。 そのお金を使って金属バットを購入したそうです。
そしてもう1つの大きな革命は筋トレの導入でした。 これは当時としては画期的なことでした。 高橋由彦先生という 副部長が出た高校に来られたそうです。 その方はレスリングの選手で、器具を使わない サーキットトレーニングを(腹筋、 背筋、 腕立て伏せ、スク ワットetc・・・)を選手に教えたそうです。加えて、慣れてくるとバーベルなどの器具を使ったトレーニングも始まりました。
そのトレーニングを取り入れたところ球がバンバン飛ぶようになったそうです。蔦監督の指示はただ一つ。
”遠くへ飛ばせ!!”
筋力トレーニングで伝えた大きな身体から放たれた打球は、ンポン玉のように飛んでいきます。
とにかく バッティング練習中心だったそうです。 さらにすごいことは 池田高校の近くにレストランがあって 、ご飯はお替りし放題、ステーキは安い金額で食べられたそうです。
これは 池田高校が全国制覇したおかげで 全国からマスコミの取材が来ました。 そのおかげで 県内外からたくさんのギャラリーがやってきました。 当然そのレストランで食事をします。 売上は相乗効果で通常の10倍くらい売り上げがあったそうです。
選手たちは、たくさんの美味しいもの 食べたそうです。
当時は、高校野球に限らず全てのスポーツは、
”水は飲むな!!”
私も体験がありますが 練習中に水を飲むことは許されませんでした。
今は水分補強は当たり前ですか・・・
そこへ 大塚製薬のポカリスエットがやってきました。大塚製薬は地元の企業です。
何とか ポカリ セットを広めようと思い 県内の高校を回ったそうですがどこにも採用されませんでした。
蔦監督は違いました。
” それを体にいいんかい?”
すぐさま導入しました。 試合中に美味しそうに ポカリでセットをの池田の選手を見て、
他の高校はびっくりしたそうです。
” 水を飲んでいる”
それから 水分 補強が重要だといことが認知され、全国に広がったそうです。
蔦監督は当時から 食育にも注目されていたのかもしれません。
また蔦監督は、監督在任中に本も出されています。これも当時としては斬新です。
試合になると体格がよくポンポン玉のようにボールを飛ばす 池田の選手たち、他行はガリガリで水も飲むことも許されない選手たち・・・
結果は一目瞭然でした。 その後池田高校は3回全国制覇をすることになります。
さらにマスコミが来ることによっていいこともあったそうです。 当時の高校野球は殴る、蹴るの体罰は当たり前だった時代です。 ただ マスコミが来ていると それはできません。
池田高校の練習は午後3時から6時半までと決められていたそうです。 その間 ギャラリーが来るので体罰はありません
水野選手 によれば 練習中はパラダイスだったそうです。 元々 バッティングが大好きだった 水田選手はのびのびと躍動しました。
” 水野さん なぜ池田高校で野球やろうと思ったんですか?”
という質問がありました。
” 実は僕の一つ上にピッチャーの畠山さんがいました。 中学校の時に、一度も勝てなかったので、高校は同じところに行こうと思いました。なぜならば 、戦っても勝てないですから・・・・
いくつかの偶然、必然が重なり池田高校は1時代を築きました。
私が申し上げたいことは蔦監督柔軟さです。 大正生まれ、 しかも戦争の体験された人間がこのように新しいものを取り入れるという姿は私は素晴らしいと思います。
私が思うこと・・・
人生 いくつになっても、柔軟な発想を持ち行動チャレンジすれば人生は楽しい。
、
いかがだったでしょうか?
YouTube ではこのように いい情報がたくさんあります。
あなたも 是非見てみてくださいね。
またお会いしましょう。